Sunday, July 30, 2006

親の愛の深さと強さ。

子供のころの私は、よくディナーの席で、父にしかられた。
箸の持ち方が悪いことだったり、お鍋の薬味を取りすぎたことだったり、噛んでいる途中に話をはじめてしまったことだったり、好き嫌いをしていることだったり。とにかくイヤというほど、家族の前で、時にはゲストの前でしかられた。同じことを何度も繰り返してしまう自分がとても恥ずかしくて、情けなくて、悔しくて、いつも泣いてしまった。私は一度泣き始めるとなかなか泣き止むことができなかったから、いつまでもグスグスしている私をみて父は、「もう食べなくていい」と食事を取り上げたりもした。恥ずかしくて、情けなくて、悔しくて、2階の自分の部屋へ泣きながら逃げ込み、ベッドの中で泣き続けた。するといつも母は、父が寝静まったころ、お腹を空かせて眠れない私に、おにぎりを持ってきてくれたりした。

どこの家にもその家のルールがある。
それはRESPECTすべきもの・・・。

今日、誕生日を迎えた男の子がいた。一年に一度の大切な日。一年で一番楽しい日。そんな日に限って運悪く些細なミスを犯してしまった彼。その彼をしかる父親。ごめんなさいがいえなくて泣きじゃくる彼。ごめんなさいが言えた後も涙が止まらない彼。そんな光景を見ながら私は、幼かった自分を思い出していた。恥ずかしくて、情けなくて、悔しい気持ち。抱きしめて胸の中で泣かせてあげたい想いを殺すのに必死だった。どこの家にもその家のルールがあること、何度も何度も自分に言い聞かせた。誕生日は特別な日だ。思いっきり楽しい日であってほしい。でもだからといって全てが許されるわけではない。そんな日だと重々分かっていながら、それよりも大事なものを見据えてルールを曲げない父親の愛情の深さに心打たれた。その強さに頭が下がった。

私の父はどんなときでもその信念が「ブレ」なかった。だからこそ、尊敬できたし、今でも怖い存在でい続ける。私もいつか親になったとき、そんな風に「ブレ」ないでいたいと思う。そんな確かなものを持った親に子供は畏敬の念を抱き、憧れ、そのようになりたいと思うものだから。

Saturday, July 29, 2006

HOME SWEET HOME

入院している祖母のお見舞いのため、久しぶりに実家へ帰った。
3年ぶりくらいに会った祖母は、思ったより元気そうだったが、
末期がんの痛みのせいで、時折とてもつらそうな表情をした。
気分転換がしたいというので、車椅子に乗せて、病院の中を散歩した。
ほんの数分、病院の玄関の外にも連れ出し、午後の日差しと温風を肌に感じてもらった。
茨城の風は南国・宮崎の風とは全く違う。
でも外気に触れた瞬間、少し明るい顔になった。
その直後、ちょっと寂しそうな顔になってしまったのはやはり、
慣れ親しんだ土地から遠く離れてしまったという感覚からだったのか?

祖父の死後、約20年くらいずっと1人で生活してきた祖母。
ここ数ヶ月、思うようにならない体を抱え、不安な気持ちで過ごしていたに違いない。
いつの日か突然倒れて動けなくなってしまうかもしれない、
誰にも気づいてもらえないまま死んでしまうのかもしれない、という不安。
「ここに来れて本当に良かったとよ」という祖母。
子供たち・孫たちが近くにいる、という安心感はきっとあるだろう。
でも祖母にとってのHOMEとは?
私たちの住む関東なのか、それとも思い出の詰まった宮崎なのだろうか?

お見舞いの後、家族で食事に出かけた。
相変わらず頑固でいつになってもオトナになれない父。
それにあきれながらも静かに寄り添う母。
父を1人の人間として受け入れられない弟。
そんな家族を理解しようとして神経をすり減らせてしまう優しすぎる妹。
そして、家族を少し離れた視線で眺めるずるい私。
好き勝手な話題が飛び交い、一見ばらばらな私たち家族だが、
それでも一緒にいると満たされる。

そういえば、私たち家族はいつも本音でぶつかりあう。
時には傷つけあうこともあり、時にはあきれることもあり、
時には泣けてしまうこともあり、時には血が沸騰するくらい怒り、
時にはお腹が痛くなるくらい大笑いもする。
私にとってのHOMEは、NYでもなく、ここ世田谷でもなく、
やっぱり家族のいる場所だと、帰省するたびにリマインドされる。

痛みをとるため、強い薬が投入される日も近い祖母。
そうなれば意識は朦朧としてきてしまうだろう。
その前に、祖母にとってもHOMEとは?それを聞いてみたい。
そして、HOMEで最期を迎えられるようにしてあげたい。
人は、1人で生まれ1人で死んでいくが、その場所はかならず、
HOMEでなければならないと、強く思う。

Friday, July 28, 2006

Second Date

初めてのデートは、いつもちょっと緊張する。
その緊張を悟られないように、いつもよりテンションをあげて、
いつもよりたくさん話したりする。
投げかける視線も言葉もどこか挑戦的で、
且つ、リラックスしているふりをしてみせたりする。

ファースト・デートの後、頭の中に録画したシーンを再生する。
大人ぶった私。彼の優しい気遣い。はしゃぐ二人。
「彼は私を気にいってくれただろうか?」
「あの台詞はどういう意味だったんだろう?」
あれこれ思いをめぐらせ、心地よい疲労感に浸る。

二回目のデートは、初めてのデートよりずっと自然でいられる。
無理して話題を探す必要もないし、優しい眼差しでお互いを包みあう。
飾らない等身大の自分をさらけ出すことを許せる私がいる。

セカンド・デートの後、ファースト・デートの後同様、
録画したシーンを巻き戻してみる。
あっという間に巻き戻ったその映像を再生する。
私の姿はない。
音声も録音されていない。
短い、ほんの数秒の映像。

彼のはにかんだ笑顔。
眼が合った一瞬の後の
恥ずかしそうな笑顔。

何度も巻き戻し、再生する。
こみ上げる暖かい想い。
こぼれる笑顔。

サード・デートがいつなのか、その行方も分からない。
でも、二人の未来を案じる必要はないと感じる。
一緒に時間を過ごすこと、それが一番大切なこと。
今はただ、この気持ちを信じて進んでいこうと思う。
次のデートを待ち望むこの気持ちを信じて・・・。

Wednesday, July 26, 2006


九州のおばあちゃん



今日、腰の痛みを訴え、祖母は緊急入院したらしい。
検査結果は、「進行性すい臓がん」。余命3ヶ月と宣告されたらしい。 取り乱している父とその弟にあたる叔父。 実母の死から立ち直っていない母も動揺している。


これからどこへ?

孫の私たちの願いは、祖母の痛みを軽減することと、
ゆかりある土地(九州)で、愛する人たちに見守られながら残された時間を過ごさせてあげたい、ということ。

今週金曜日に私は帰省する。
ダンス教室のアン・ジョンファン

社交ダンス教室のドアを開けたのは、とても健全な理由からだ。
NYのレインボールームで、ディナーの途中にスッとダンスフロアーへ降りて行き、生バンドの演奏に合わせて、フロアーの誰にも負けないくらい粋に踊りたかった。フロアーの誰もが羨むくらいに、フロアーを取り囲むテーブルからはため息がこぼれるくらいに。

社交ダンスのレッスンを実際に受けようと決めたのは、しかし、下心からだ。
毎週土曜日のグループレッスンに見学に行ったとき、さえない人たちの中にアン・ジョンファン似のひときわ華やいだ存在があった。彼の身長は180センチ強、風通しのよさそうなサンドベージュのコットン&麻パンツとほどよくタイトに張り付くグレーのTシャツを着て、背筋を伸ばし、程よく肩の力の抜けた、良い姿勢で立っていた人がいた。何度かステップを間違えていたようだが、そのたびに静かに微笑み、ごめんなさいと言いながらすぐ気を取り直して次のステップへと進んでいく。そんな彼の姿に私は釘付けになり、彼もそれに気がついたのか何度となく目が合った。50分のグループレッスンが終わり、先生が私の隣に座った。「どうでしたか?」と聞かれるか聞かれないかのうちに、「申し込みします」と言っている私がいた。グループレッスンの生徒さんたちがクールダウンしているのを横目で見ながら私は、ダンスシューズや個人レッスンチケットやらを購入した。いつ、彼と一緒に踊ることができるんだろう?来週だろうか?再来週だろうか?

グループレッスンに参加できるようになるには、ある程度ステップを知らなくてはいけない、と知ったのは、個人レッスン1回目のときだった。それからは週1回だったレッスンを週2回にしてもらい、上達のスピードアップを図った。1日でも早くステップを覚えて彼と踊らなくては!

どうやら彼は、毎週水曜日7時半または8時から個人レッスンを受けているようだ。そういえば先週も7時半近辺に教室のすぐ近くの踏み切りですれ違ったっけ。

今日、私のレッスンが終わるころ、彼が教室に入ってきた。柔らかいピンク色のシャツを着ていた。そして着替えを済ませると教室のはじでストレッチを始めた。そんな様子を私は、新しく覚えたばかりのジルバのステップ(チェンジ・オブ・ポジション?)を交えて踊りながら、横目で盗み見ていた。先生が叫ぶ。「背中を丸めない!」「アタマを揺らさない!」「ターンをするときは目を残して!」「下を見ない!」「もっと腰をひねって!自分でひねる!」何もかもがなっていない私のダンスを彼は見ているのだろうか?それとも柔軟体操に集中して、私のことは無視していてくれるのだろうか?どちらにしても、ちょっと残念に思う私がいる。

あっという間にレッスンは終わった。今日は前回よりも汗をかき、前回よりも音楽が耳に届き、前回よりたくさん笑いながら&話ながら踊ることができた。やはり継続は力なり、だ。着替えを取りに行く途中、彼の前をとおりすぎた瞬間、彼が言った。「お疲れさまでした」。一瞬の出来事だった。サプライズに弱い私は、蚊のなくような声で、「お疲れさまでした」と返した。もしかしたら彼には届かなかったかもしれない。でも一瞬、彼と視線が合ったことだけは確かだった。

来週のレッスンは、残念ながら、月曜日と金曜日。きっと彼には会えないだろう。でもいつか踊れる日が来ると信じて、日々精進することにしよう。

Tuesday, July 25, 2006

My iPod is dying
(And my memories with my ex are dying, too...)



BFと別れたとき、返却すべきもののリストを作った。
そのリストには10アイテムくらいしかなかったけれども、
何度も(はらわたが煮えくり返るくらい酷いメールを通して)
何度もネゴして、結局、そのうちの8アイテムは返却することで合意した。
私の手元に残ったのは、加湿器とiPod&専用スピーカー
一緒に行くはずだった旅行のキャンセル料も全額払ったし、
クリスマスプレゼントにもらった時計も返した。
二人で過ごした楽しかった思い出は、手元に残ったアイテムに凝縮されていた。
湿気の多い今、加湿器は使わないから、彼との思い出はこのiPodに・・・。

ああ、それなのに、このiPodの充電がおかしい。
何時間充電しても数十分しかもたない。
通勤の片道は23分だが、それでも1駅分は足りない。
彼からもらったiPodが死んでいく。
と同時に、彼との思い出もが死んでいく。
新しいものを買いたい衝動に駆られる。
でもその時、きっと、新しい恋にココロは動いていくのだろう。

さようなら、さようなら。
長い宇宙の時間の中で、一瞬の星の瞬きくらいに短い時間だったけど、
一緒にいてくれてありがとう。
寂しい私の心を慰めてくれて、ありがとう。
ほんの一瞬でも、あなたにnegative forceをおくってしまって、
ごめんなさい、ごめんなさい。

Saturday, July 22, 2006

My perfume collection


香水を集め始めたのは、初めて渡米した20歳のとき。
日本のデパートでは手が届かないくらいの価格で売られている高級な香水が、アメリカのモールではまあまあ手が届く価格で売られていた。日本のデパートの売り子さんたちは、小娘が素敵な香りをスニッフィングしていると怪訝そうな顔をするが、アメリカのモールのセールスパーソンたちは、誰もが好きな香りを気軽に試すことを許してくれていた。

学生だった私は両親からの送金で生活をしてた。その私が初めて購入(両親のお金で!)したのは、ChanelのCocoだった。同級生たちは柑橘系やフローラルな香りを好んでつけていたが、私はそういう香りがあまり好きではなかった。そして色々な香りをスニッフィングした中で、Cocoの香りを嗅いだとき、なぜかとても切ない気持ちになって、一瞬にして惹かれてしまった。Cocoは成熟した女性を想像させた。触りたくなるような柔らかな服を着て、素足でヒールの高いサンダルを履き、リラックスしているときの心臓の鼓動と同じくらいのスピードで歩く。風が顔にかかる髪を払い、膝丈のスカートの裾を揺らす・・・。20歳の私のクローゼットの中にはコットンの服ばかりで、ヒールの高い靴なんで1足も持っていなかった。そんな私がCocoを身に着けているのは、周囲からみたらとてもアンバランスな感じだったに違いない。私の肌の上でCocoの香りが暖められて匂い立ち、香りのオーラを作る。その中に包まれているのがとても心地よかった。

Cocoを購入してからは、様々な香水を集め始めた。人気があるとか新製品だとかいう安易な理由で購入してしまったものもあれば、悩みに悩んだ末、やっと購入を決意したものもあれば、Cocoとの出会いのように一瞬で恋に落ちてしまって購入したものもある。その中にはもちろん好き・どうでもいい・嫌いの区別が明らかにあって、嫌いだと思う香りをつけていると、頭痛がしてきたり気分が悪くなってくる。その反対に好きだと思う香りをつけていると、とてもリラックスできたりやる気が出てきたり、なんて人生は楽しいんだろうと楽観的な考えが次々に浮かんできたり、とても幸せな気分で過ごせる。ある本で読んだことだが、視覚や聴覚はいちど大脳の視覚野や聴覚野に入ってから感情を司る大脳辺縁系にはいるらしいが、嗅覚だけはダイレクトに大脳辺縁系に入るらしい。そのせいで、匂いに対する好き嫌いの反応は、見たもの・聴いたものに対するそれよりもずっと速いのだそうだ。

一番最近では、ランコムのTropiquesを、香港旅行中に購入した。甘く官能的で且つ南国の果物のような香り。その香りに包まれていると、まるで自分が美味しい食べ物にでもなってしまったかのような錯覚。香港島と九龍島を結ぶスターフェリーのデッキで、彼が私を後ろから抱きしめる。その時彼は、潮風を吸い込むふりをして、私の体臭と融合したこの魅惑的な香りに酔っているに違いない・・・。なんていう絵が浮かぶ香りだ。
さあ、この夏はどんな香水を購入しようか。新しい香りには新しい思い出ができる。楽しかった夏が終わり、メランコリックな気分になる秋がやってきたとき、しばらく「夏の香り」を着けていることにしよう。遠くへ旅立ってしまった夏の思い出が、「夏の香り」と共に一瞬戻ってくる。しかし儚い夏の思い出は、「夏の香り」が消えるのと同時にまた消えてゆく。新しく始まる秋とその香りに全てを託して・・・。

Friday, July 21, 2006

My 4th ballroom dancing lesson

I started taking a class twice a week, as my good friend, who used to be dancing for the competition and who's still dancing for fun and more.

Tonight, it was my 4th lesson. So far I learned Zilva, Mambo, Blues basic steps, some fun/exciting movements (I don't remember the names of those movements...) to go with those steps. Tonight, I danced those dances, and my teacher taught me how to dance them more beautifully.

My teacher, probably younger than me, is non-human - she's got a too perfect body!
That "she" corrected my posture and taught me how to move my body and legs. And now I have a feeling that I can be a better dancer learning from her. Inspired by the perfect way of her body movements, I am gonna be a better dancer!

Next class will be Wed. next week, and I can't wait!
I think I am beginning to REALLY like ballroom dancing. I will soon start taking a group lesson, where I can learn how to dance with people like me, "non-perfect dancer. " And that's gonna be fun, because, in this world, there are non-perfect people, and that's the way it is.
No one is perfect, but we just can't stop wanting to bring ourselves to come closer to the perfection, RIGHT?

Wednesday, July 19, 2006

Shall We Dance - Part III

今日はジルバのステップを学んだ。
と同時に、BFとのステップがずれた。

「ひとつの扉を閉めると新しい扉が開く」とはよく聞くことばだけど、
新しい扉を開けると、後ろ手に扉を締めてしまう、ような感覚。
新しいおもちゃを手にした子供のような私は、
無邪気な笑顔&残酷な態度で、自分の世界に閉じこもり、
彼を締め出してしまった。
一瞬の気の迷いだと思うけれど・・・。
参った。

Monday, July 17, 2006

九州のおばあちゃん

父の母親、私たちにとっては「九州のおばあちゃん」、は今年90歳になった。「九州のおじいちゃん」が1885年に亡くなってから、ずっと1人で生活している。

おばあちゃんの家は木造平屋。台風がきたら吹き飛ばされそうなくらい、老朽化が進んでいるので、父や父の弟が帰省するたびに、ちょこちょこ修復したり、文明の利器を加えてきたりしている。でもおばあちゃんは、あまり手を加えてほしくないらしい。昔のまま、おじいちゃんがいたころのまま、使い勝手のよいまま、にしておいてほしいらしい。

おばあちゃんの家には冷暖房がないので、夏はじっとしていても汗が流れてくるし、冬はじっとしていたら体中の震えが止まらない。あちこちの隙間からは、夏は熱風(&虫)、冬は冷気が入り込む。土間から1段上がったところにある台所には、いつも小さな蟻の行列があって、その行き先は食器棚の中の砂糖瓶だ。お風呂は釜炊きで、その温度調節はおばあちゃんにしかできない。そのお風呂の洗い場には、時折沢蟹が遊びにきたりする。髪の毛を洗い終わって目を開けると、すぐ近くに蟹が寄ってきていて、びっくりしたりする。トイレはもちろん、汲み取り式で、換気窓が上下に1つずつある。その昔、下の換気窓から蛇が進入してきたときは、大騒ぎをしたっけ。

おばあちゃんは料理上手だ。特に父や私たちの大好物は、巻き寿司とすき焼きだ。誰かが帰省するとなると必ず巻き寿司を用意して待っていてくれる。かんぴょう、玉子焼き、きゅうり、さくらでんぶしか入っていない巻き寿司だが、とにかく旨い。私も何度か同じ材料で作ってみたが、おばあちゃんの味にはどうしてもならない。

そんな自活・自立していて格好いい九州のおばあちゃんだが、最近体調がすぐれないらしい。
ということで急遽、来週から夏が終わるまで、茨城に住む父・母と一緒に生活することになった。
九州のおばあちゃんが、茨城に来るのは、20年ぶり。九州のおじいちゃんが亡くなったとき、お位牌を持って上京して以来だ。

というわけで、「週末には必ず帰ってこい」と父から連絡があった。そんなこと言われなくたって帰りますよ!

Saturday, July 15, 2006

"The Empress' New Clothes"

自宅に1人でいるときは、私は服を着ないで過ごす。大気だけでも重くのしかかってくるというのに、その上にさらに衣の重さを追加するなんて・・・。外出時には、鎧をまとう感覚で、服を着てメイクアップをするが、帰宅して部屋のドアを開けると同時に、顔にペイントされた色を落とし、体を覆っていた戦闘服を脱ぎ捨てる。

休日の朝、シャワーを浴びながら、前夜の宴の全てを忘れる。たとえ素敵な余韻があったとしても、それさえも手放す。新しい1日がこれから始まるというのに、過去を引きずってどうするの?!新しい心躍る瞬間のため、ココロもカラダも清浄にする!!

裸の王様の話にある教訓はなんだったっけ?と考えたとき、ふと、現代版・裸の王様を書いたら面白いかもなと思った。現代人の私たちは、素っ裸の自分でいるのか怖い。中身を見透かされないように、たくさんのレイヤーで自分をラッピングしている。マテリアル社会で情報に踊らされ、生まれた瞬間に神様から&親からギフトとしてもらった貴重な「セルフ」というものを失ってゆく私たち。気がつけばこの国は、右も左も自分と同じような経験・ルックス・思考回路を持った人ばかりが住む場所になってしまっている。

これからはもっともっと裸で過ごす時間を増やそう。そして、ココロも裸にして、もっとたくさんの人と関わろう。皺だって、たるみだって、ちょっとくらいの変形だって、私がユニークな存在だと証拠。そういう心身のユニークさを尊重する人たちが増えてくれば、この国は本来の豊かさを取り戻すのではないでしょうか??
My First Dancing Shoes


木曜日のレッスンは、前回のレッスンで学んだブルースのステップの復習から始まった。さすがに1週間も間があくと、忘れてしまっていることも多かったが、しばらくステップを踏んでいると、セリーヌ・ディオンの曲ではないが、It's all coming back to me、とても嬉しくなった。


今週のダンスはマンボだった。
スタンダード・ダンスには非日常的な動きがあるが、 ラテン・ダンスのそれはある程度想像できるように感じた。それにクラブ(ディスコと呼んだ時代もあった・・・)で踊ることに多少近い感覚もあって、楽しみながら学ぶことがでんだ。1拍の間に、右足、左足、また右足と重心移動をして、綺麗にクルッと回転できた瞬間には、心の中で自分に拍手を送っている私がいた。


その昔、NYのクラブで踊っていたころのダンスは、自分が踊るというよりも音楽に(DJに!)踊らされている感じで、その「流される」感覚は、手放しで快楽を追求してしまうM的な快感だった。いつも神経を研ぎ澄ませて、他人の思考や自分の置かれている状況を把握しようとする私にとって、そういう無防備になれる瞬間はレアだったし、だからこそ踊りに行って、音楽に(DJに!)身をゆだねてしまうことが心地良かったのだと思う。

でも現在学んでいるダンスから得られる快感は、それとはまったく別のものだ。
基本的な動き自体、とても緻密に計算されて確立されたものだし、自分の動きも相手の動きを予測しつつコントロールしていなくてはならないので、一瞬でも、自分や相手に「流される」ことを許さない、カラダだけでなく、アタマもとても疲れるダンスだ。しかし全てが思うとおりに動いていることを確認したときに得られる快感というものがあって、これはまた格別だ。

どんなダンスにせよ、快楽があるから、人は踊るんだ。

Wednesday, July 12, 2006

時差のある筋肉痛が愛しい訳

ここ数年、とても気になっているのだが、筋肉痛が遅れて出てくる。
確実にアメリカ東海岸くらいの時差がある。 いや、正直言えば、ヨガをしたのは一昨日の朝で、背中が痛くなり始めたのは今朝だったのだから、 東海岸どころじゃない・・・

明日は待ちに待った1週間に1度のBallroom Dancingクラスの日だ。
1レッスン25分間という短い時間の中では、筋肉に疲れをためることはできない。
先生からステップを学んで、ちょこちょこ足を動かしているうちにタイムズ・アップ。
どこか腑に落ちない、不完全燃焼な気分で、教室を出て行く私の姿が今から見えるようだ。

昔、NIKEか何かのCMで、No Pain, No Gainというのがあったが、私はまさにそれを信じている。
もっともっと練習時間を延ばし回数を増やして、もっともっと筋肉を痛めつけて疲労物質を溜めたい。
そうすれば、翌朝または翌々朝、筋肉痛を感じることができるだろう。
そして私は、自分の限界を少々広げた気がして、幸せを感じているだろう。

何時間の時差でもいいから、筋肉痛よ、頼む、来てくれ~っ!

Tuesday, July 11, 2006

Just a dream?

I was waiting for my friend at a busy train station. T
he person I was supposed to meet was my friend, whom I had met in NY, and whom I'd been close to since then.
In front of my eyes, people were coming and going.

All of sudden, I felt like I wanted to change my clothes. Right there and right then.
And I felt nothing - no shame - about doing that in public.
After I changed my clothes, I felt like I wouldn't need anymore of my clothes, including the ones I was wearing. And I threw them all away.

Then my friend showed up, and that was when I realized that those clothes I threw away happened to mean a lot to me. So I picked them up.

I was looking for something to put those clothes in, and I remembered I had a paper bag with me. With my clothes in it, I stored the paper bag in the nearest locker. My friend offered me some coins, and as he put several coins in it.

Its small display showed “10" which meant it would be good for 10 minutes. It worked just like a parking meter. I knew, after 10 minutes, I would have to add some more coins. My friend was leaving away from the locker and from me. Just as I was about to leave, too, I found 3 coins returned, so I kept them in my hand to give back to him.

On the street, he and I were walking. We were heading for some place. I didn't know where to. He didn't tell me where to. We were just walking.

I remembered I had those 3 coins in my hand and I was gonna return them to him. But he refused to take them. He said he meant to give me those coins. I felt bad about receiving them, so I refused. And I told him I would not take them because he was giving me too much already.
He looked kind of mad.

I couldn't understand why we were having a conversation like that. I wondered why we were arguing about such a little thing.

Outside I was at a table, being with him and his daughter, who was about 3 or 4 years old.
We were having a good time until his wife showed up. She started acting like she was so in love with her husband. I felt nothing about her attitude. Then she started acting like she hated his daughter. And I felt mad. I couldn't let her do that to such a little kid. I defended his daughter by saying that I loved his daughter so much. I said I loved her more than anything else. And I really meant it. More than my friend. More than any man I'd ever loved.

Then a scene changed.

There was a battle field, and I was hiding and running away from enemies. I was wearing dark-green clothes, which exactly soldiers in the army wore. I found a place, refugee camp, to hide myself from the enemies. There were people, foreign people, who looked to me like Indians from India. Their kids were playing, and they were wearing the battle-field clothes, too. I was carrying a black umbrella with white handkerchief tied to it. And I took that handkerchief off, and as I approached close to them, I was waving it like a white flag.

They didn't shoot me, Thank God, I felt.
One of them, short and Asian-looking guy, came up to me. He asked me who I was, what my nationality was. He asked me if I was a Chinese. And I said no. I said, with a moment of hesitation, after a second of serious thinking, I am Japanese. I didn't know who they were allied with. And I was afraid to say that I was a Japanese because we, Japanese, could be their enemies.

In the refugee camp, I met some boy, about 3 or 4 years old. I happened to like this boy very much. In fact I was holding his hand wherever I went. The next moment, I bumped into a guy who appeared to be this little boy's father. He looked very familiar to me. Someone I'd known for a long time. From another life. I had a very good feeling towards him. The feeling I had for him was very tender and warm.
It could be love.
A very true love.
Unconditional one.

Then I saw bombs falling down from the high sky. I was the first to witness the scene. I told everyone in the camp to leave. It was a plain land, where we could find no place to hide. We were hopeless.

One after another, those bombs, looking so harmless, landed on the ground. Strange as it might sound, they were in pink and as beautiful as water lilies. Once they landed on the ground, they were silently waiting. Waiting for the right moment to cause great explosion.
To harm innocent people.

He, and his child, and I started running away. We had to get away as far as we could from those bombs. Across the street, there was a store run by the enemies. In it, there were two security guys. They were enemies. We had no choice. Bombs were about to explode. Nowhere else to go.

All of sudden, with his bare hands, he started to move those bombs as far as he could from where we stood. He said those bombs could kill anyone or anything within 70 meters. And if he could move all the bombs near us away enough, we would have a good chance to survive. He did move every bomb as far as 50 meters away, but it was still 20 meters short. So, we had to move 20 meters away from them. We had nowhere else to go but to get into that store.
To save our lives, we would have to get into that enemy-owned store.

Over the high fence, we climbed, and he told us to wait, down by the fence. He said he by himself would go in to the store to check out. I knew he wouldn't just "check out" the place.
I knew he would risk his life and distract those security guys as a decoy. So that his son and I would be able to get into the store from a different door and hide ourselves in somewhere between ails, under high shelves. In front of our eyes, he got arrested. We saw him being taken away. From us.

I was crying. I felt tears running down on my cheek. As we all witnessed, all I could say to his son was that I was very proud of him. I told his son over and over again, "I'm very proud of him. He was doing his best to save us." And then I realized that I was talking about him with the past tense, which meant that I admitted his death. I hated myself for that. I should've never given up hope. Hope he would come back to us and be with us and make us a family and live happily ever after.

Along after my tears dried, a miracle happened.
He came back in one piece! At that time, the bombing was over.
On the ground, those bombs that didn't explode were still lying.
People were coming out from everywhere.
They were hiding and all alive.

Some people were checking on those bombs and found out that some of them were never meant to explode. The fake ones.

We felt relieved.
And we laughed with joy.
Joy for all of us being safe and alive.
Dear Shandini

私には子供がいる。
といっても、一緒に生活をしているわけでもなく、
血が繋がっているわけでもない。

彼女は2001年1月21日、インドに生まれた。
両親共に健在で、共に肉体労働をして生計を立てている。
彼女はとても元気で、学校も大好きだ。
得意な科目は言語、らしい。
なわとびが好きで、掃除のお手伝いをする、
とてもよい子、みたいだ。

彼女に会ったことは一度もない。
いつか会う日がくるかどうか、それも今は分からない。
私がしていることといえば、彼女が元気に、
そして彼女の家族の生活が少しでも楽になるように、
ほんの少し、お手伝いをさせてもらっている、だけだ。
彼女からは、クリスマスにはグリーティングカードが、
定期的に彼女の成長をうかがわせる絵が送られてくる。

私の中にも生命が宿ったことがある。
出産予定日は2000年2月29日だった。
あの時、生む選択をしていたら、今頃彼女と同じように、
小学校に通っていたに違いない。

実はまだ一度も彼女に手紙を書いていない。
近い将来、彼女に手紙を書こう。
遠くから、愛をいつも送っていると、言おう。
Shandiniにその手紙が届くとき、もしかしたら、
私の子供として生まれるはずだった命へも
メッセージが届くかもしれない、という願いを込めながら。

Monday, July 10, 2006

We're all connected - what comes around goes around (English version)

There's something I really feel weird about.
Every time I meet someone, and as soon as I decide that I wanna be with that someone, messages will come in, from my pasy boyfriends and/or people whom I tried to be with but who never find me attractive. It happens in the light of speed - in a moment I decide my heart, they start calling me.

We're NOT living alone. We're connected with people around us, the country we're living in, the earth that keeps all living creatures alive, and the universe that embrases the earth and other plants. And all those things are connected.

When I dispatch my energy - my thoghts and feelings, that will reach to somehwere in this huge universe, or the limited earth, or this small country. And the replies will come back to me from somewhere from those places or from someone in those places.

When I see that, the fact that we're all connected - what comes around goes around, I just have to be very careful of what I say, what I do, what I feel, and what I think.
We're all connected - what comes around goes around.

毎回不思議になることがある。
好きな人ができて、その人と歩いていこうと決意したとたん、今まで付き合った人たちや、今まで相手にもしてくれなかった人たちから、連絡が入る。それも決意した日にどんどん入ってくる。

私たちは1人で生きているわけではない。周囲の人たちや、私たちが生まれたこの国や、生物全てを生かしてくれているこの地球や、その地球を抱える宇宙と共鳴しあって生きている。私が発した決意のエネルギーは宇宙のどこか、地球のどこか、日本のどこか、または誰かにキャッチされるんだろう。そしてその発したエネルギーに対して、別のエネルギーが、返信のエネルギーが、発せられる。そう思うと、自分の言動はもちろん、思考についても注意しなくてはいけないのではないかな、と思う。全ての人、国、星、その星を抱える宇宙やそれ以上大きなもの、は全て繋がっているのかもしれないから、気をつけないとね。

Sunday, July 09, 2006

St. Elmo's Fire



中学生の時、初めてのBFと一緒に観たのは、『St. Elmo's Fire』だった。あのころの私たちは、家族や学校や友達のことで頭を悩ませていて、人生はなんて苦しいんだろうなんて思うこともあった。今思えば、なんて小さな世界で生きていたんだろう、なんて贅沢な毎日だったんだろうと思うけれども・・・。

映画の中の同級生たちは7人組だったけれども、私たちは9人組だった。私以外のみんなは、大学や専門学校を卒業して仕事に就いていた。学生時代よりはるかに大きな世界に飛び出し、それぞれが新しい悩みを抱え戸惑っていた。みんなより遅れて大学生になった私は、、4ヶ月の夏休みと1ヶ月の冬休みには帰国し、みんなはそれを理由に毎晩集まった。飲んで歌って大騒ぎして、それぞれの悩みを吹き飛ばそうとしていた。毎朝二日酔いで、それでも毎晩また集まっては大騒ぎをした。1996年の冬を最後に私は帰国しなくなった。と同時にみんなで集まることはなくなった。1999年に帰国してからも会うことはなかった。

2001年5月31日、夜8時か9時だったと思う。仲間の1人、恵美子から電話があり、仲間の1人、剛が死んだことを知らされた。私は半同棲中のカナダ人のBFといつものようにワインを飲んでいたが、彼女の声を聴いた瞬間に何かが重大なことが起きたことを感じた。「たけぴんが、事故で、今朝、亡くなったの」。彼女の声は遠くに聞こえた。意味が分からなかった。「週末、お葬式だから、一緒に行こう、実家でまってて、迎えに行くから」。何が何だか分からなかった。電話を切った後、私はカナダ人の腕の中に倒れこんだ。「I'm sorry」と繰り返す彼の声も遠くに聞こえた。本当にみんな何を言っているんだろう。意味が分からないよ。

良く晴れた日だった。実家に着くと、なぜか両親がよそよそしかった。腫れ物に触るように私を扱っていた。両親の声も遠くに聞こえた。恵美子が迎えにきた。後ろのシートには愛娘を乗せていた。両親はまるで自分の孫を見るように顔をほころばせていた。全てがスローモーションに見えた。助手席に滑り込み、両親に手を振り、実家を後にした。

斎場に着くと、懐かしい顔があちこちにあった。みんな目を真っ赤にしていた。どうしたんだろう。たくさんの人がいるのに、彼らの声が聞こえない。まるで雪の日のように、しーんとしている。中学1年から3年までの担任・桜井先生がいる。彼が3年間担任したのは私と剛だけだった。先生の目も真っ赤で、私を見つけると、震えるように泣き出した。先生の横には剛のお母さんがいた。私に気づくと、まるで中学生のころの私に話しかけるように、「来てくれたのね」と言った。お母さんはあのころよりずっと小さく見えた。あのころはちょっと怖かった。私と彼が部屋にこもっていることを良くは思っていなかったに違いない。それでも毎日、美味しいクッキーとブルーマウンテンを部屋に運んでくれた。

全てが終わり、いよいよ最期の瞬間が近づいてきた。棺に静かに横たわる彼に触れようとしたけど、結局、彼の肌に触れることはしなかった。その肌の冷たさを感じるを避けたかったのかもしれない。周りで号泣する人たち。仲間の数人も大泣きしていた。棺にすがり泣き叫ぶ家族。その棺が狭いエレベーターのようなものの中へ移動する。ゆっくりと、そして扉が閉まる。もう永久に開くことのない扉の向こうへ彼を乗せた棺は消えていった。何も聴こえない、何も感じない、つまらない映画を見ているみたいに私は白けていた。

しばらくは今までどおりの毎日が過ぎていった。つまらないことに腹を立てカナダ人のBFにあたることもあったし、二人で夕日を見つめなから穏やかな時間を過ごすこともあった。何もかもが普通に過ぎていった。何も変わらない毎日だった。

それはとてもいい日だった。私にとってとても嬉しいことがあった日だったと思う。何だったのかは覚えていないが、とにかくとても幸せな気分で帰宅した日だった。部屋に入ったとたん、今まで感じたことのない怒りがこみ上げてきた。と同時に今まで感じたことのない悔しさと悲しみがこみ上げてきて、私は声を上げて泣き始めた。涙はいつまでも止まることがなかった。彼がこの世にいないことをはじめて実感した。嬉しいことを一番最初に話したい相手だったのに。幸せな気分を共有したいと思ったとしても、彼はもういないんだ。私たちの世界は、学生時代の比較にならないくらい大きくなって、悩みもそれに比例して大きくなったけど、喜びも同じくらい大きくなったというのに!もっともっといいことはたくさんあるのに。これからもっともっと幸せになっていくのに!!それから1年半、私は毎晩泣いた。

今日は久しぶりに『St. Elmo's Fire』を観てみた。たくさんの情景が思い出される。今の私はあのころよりずっと大きな世界で生きていると思った瞬間、それは違うという自分がいた。世界はいつも同じ大きさでそこにあり、私たちと世界との距離感が変わるだけなような気がする。年をとると老眼になり、近いものがよく見えなくなる。私たちと世界との関係もそんな感じかのかもしれない。目の前の小さなことに躍起になっていたころが懐かしい反面、もう戻りたくないとも思う。私たちの世界の全ては現実で、でも実はすべて幻想のような気もする。猟師たちが語り継ぐ、St. Elmo's Fireのように・・・。


"It's St. Elmo's Fire. Electric flashes of light that appear in dark skies out of nowhere. Sailors would guide entire journeys by it, but the joke was on them... there was no fire. There wasn't even a St. Elmo. They made it up. They made it up because they thought they needed it to keep them going when times got tough, just like you're making up all of this. We're all going through this. It's our time at the edge."

Friday, July 07, 2006

SHALL WE DANCE - part II

今日は初めてのソーシャルダンス(英語ではBallroom Dancing)個人レッスンの日。
簡単にブルースのステップを教えてもらって、覚えてか覚えないかのうちに、 スロー、スロー、クィック、クィックと始まって・・・。もちろん格好踊れる以前の問題で、足が綺麗に前・後ろと出ないんです。惨敗・・・。

実は少し期待していたんです。
あっという間にステップを覚えて、綺麗な形で踊れるかと。
というのも、もともとNYCではクラブなんぞやで毎週1回は必ず朝まで踊っていたし、 あの有名なRainbow Roomでディナー兼ダンスの経験もあったりしたので、まあそんなに苦労することなく形になるかと・・・。やはりそんな簡単なものではなかったです(涙)。以前、Ball Roomでうまく踊れていたような気がしたのは錯覚で、単にダンスパートナーのリードが良かっただけだったんですね。彼は大学時代に社交ダンスの選手権に出ていたような人だったので、もちろんどんな人でもうまく乗せることができるのです。

先生は「体のバランスの乗せ方がすごくいいわ」なんて、ほめてくれたけど、 私の心はしゅーんと萎んだまま。家についてからなんとかステップを思い出して復習しようとしたけど、さっぱりだめで、また心はしゅーん・・・。

と思ったのもつかの間、もともと勝気な私にメラメラとやる気が沸いてきました。うーん、やる気というより自分の思うったとおりに動かないカラダに対してイライラしてきました。少なくとも私は長年ヨガをやっていて、鏡なんてなくても頭で描いたとおりのポーズをとれるんだっ!それなのに、鏡張りのダンススクールで、鏡を見ながらレッスンしても、綺麗に形が作れないなんて・・・。

来週13日(木)が次のレッスン。
決戦は金曜日っていう歌があったけど、決戦は木曜日だあ!

Sunday, July 02, 2006

SHOES

What's up with women with their passion for shoes?

It's just shoes, and as we know we have so many shoes already, why we keep buying new ones?

I have so many shoes (as you can see in the picrure), and they are just for summer! In my closet, I have boxes of shoes for spring, autumn, and winter...

I've read in a magazine that people who have many shoes are "players." They can't stick with a partner and they keep watching new ones. Is that true? I am very faithful and I don't do "browsing" when I am commited to someone I like. What's up with my desire to buy more shoes? I know I end up buying shoes that are so similar to the ones I alreay have.

Saturday, July 01, 2006

大江千里

15歳の時から、大江千里の曲を聴いている。
あの日、隣の席に座っていた彼が差し出した
アルバム「Pleasure」がきっかけだった。

初めてキスをしたのは15歳。卒業式の翌日。
デパートの屋上で、夕日が沈むギリギリのところで、唇を合わせた。
16歳の誕生日にはガラスの靴をプレゼントしてくれた。
「僕だけのシンデレラでいてください」というメッセージつきで。
19歳、別れたときは、一瞬時間が止まってしまったが、
それでも友情は残り、つかず離れず、関係は続いた。
11年後、2001年、5月31日、彼は突然死んでしまった。
1年半、毎晩、私は泣いた。

2006年、現在、私は心身共に健康だ。
仕事も順調だし、私生活もそれほど悪くない。
家族も健在で、悩みと言えば、独身だというくらいで、
それも贅沢な悩みだと思う。
土曜日の午後、大江千里の曲を聴いてみた。
白ワインを飲みながら。
若かったあのころにタイムスリップする。
大好きだった彼がそこにいるような気がする。
溢れる想い。流れる涙。
懐かしさと悔しさと切なさと愛しさと・・・。
全ての曲を聴いたあと、また数曲を再生する。
彼に会うために・・・。

Bedtime Stories
Dear
十人十色
塩屋
きみと生きたい
REAL