Sunday, September 08, 2013

改葬

谷口家代々の墓は、宮崎県・日向市にありました。祖母が亡くなり数年後、子孫たちは皆、関東に住んでいるということで、「改葬」してはどうかという話が持ち上がり、昨年の祖母の7回忌を終えたタイミングでその話が現実的になり、そして、今日、それが実行されました。

話せば長くなりますので簡単に・・・

当初、この「改葬」に関して、父(長男)と叔父(次男)は同意していました。だた、その場所に関して、しばらく意見の食い違いがありました。結局、叔父は、父の了承をとらず、宮崎のお墓から遺骨を取り出し、東京へ持ってきて、お墓の場所を決め購入。父の意見は一切反映されず、物事が動いてしまいました。

父は、今回の一件には不本意でしたが、潔くお墓の購入代金、遺骨の移動費用、「改葬」の供養の費用等、全てを支払うことを決めました。そして、今日の「改葬」の供養には私(長女)を伴い参列しました。

新しいお墓は、叔父の家のすぐ近くですので、父は、片道2時間少々かけて、私は片道1時間少々かけて向かいました。遠いです。頻繁にはお墓参りには行けそうにありません。

雨がしとしと降っていました。全てが叔父とその家族主体で動いていきました。

全員で、遺骨の確認をしました。祖父、祖母、曾祖母、(小学校2年生で事故死した)叔父の遺骨。父と私が、墓地の入り口から墓地まで、歩いて運んだ遺骨です。「重いから・・・」という叔母の言葉を遮って、父とわたし、ふたりで運びました。重くなんてありません。いえ、実際、立派な遺骨なので、重かったのですけど、その重みが嬉しかった。

そうこうしているうちに、叔父の選んだ女性住職さんが到着。彼女が、供養のお経を唱えはじめ、お焼香の時がやってきました。まず最初に叔父が、次に父、そして叔母、私、私の従兄弟夫婦という順番でした。

お経が唱えられている間、私の隣にたつ父が、傘に隠れるようにして静かに泣いていました。それを見て私は、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。今回の件、何もできなかったことが悔やまれました。私が結婚していたら、子供でもいたら、父はこんな情けない思いをしなかったかもしれない・・・。

お経の途中、ふわっと大きな風が吹き、住職さんがお墓の側に立てかけた傘が倒れました。私は自然に足が前に出て、それを拾いました。それはご先祖様からのメッセージのように感じました。

供養の後、書類手続きで少々手間取りましたが、その後、みんなで食事をし、そして散会。

父とは、私の乗り換え駅で分かれるまでのほんの10数分でしたが、会話をしました。言葉は少なかったですけど、父の複雑な思いがひしひしと伝わってきました。

初めて聞く話でしたけど、本家のお墓は、(何らかの事情で)次男が墓守となり、今も宮崎にあるそうです。長男だった祖父は、分家として、あたらにお墓を作ったそうです。「歴史は繰り返すんだな」そうぽつっと言った父の言葉が耳に残っています。

「俺が死んだら保険で400万円くらい入るから、それで墓を建ててくれ」と父。父は、この新しいお墓に入る気はないようです。「でも、だったら、分骨してもらわないとね」と私がいうと、それは好きにすればいいと・・・。私の代でそれは会話すればいいですね。もしかしたら、また「改葬」をして、みんなにとって便利な場所にお墓を建てるかもしれませんし、宮崎の本家のお墓に統一してもらうかもしれませんし、それはわかりません。

それにしても、穏やかではない心を抑えつつの父の今回の対応、本当に立派だったと思います。私だったらできないかもしれない。いや、できない。

父は、食事の最後に、今日の「改葬」を執り行ってくれた叔父へ、感謝の言葉を、みんなの前で伝えていました。父の性格からすれば、それはとても難しいことだったと思います。それでも、それが今、望まれていることだと感じ、そういう行動になったのでしょう。その礼儀正しさ、義理堅さ、愛の深さに、改めて頭がさがると同時に、父の娘で良かったと心から思いました。父のような懐の大きな人間の血を引くこと、それは私の誇りです。私に生を与えてくれてありがとう。日本人ですから、父も私も、言葉で「愛してる」やらうんぬん、いいません。でも、心で強く思っていますし、それは行動からにじみ出ていると、きっと伝わると、そう信じています。

【遺骨】
祖母・都美
祖父・寅市
叔父・典弘
曾祖母・ミキノ

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