Tuesday, July 27, 2010

Letters III

1995年の8月下旬にNew Yorkに渡り、
NYUの3年生になった。
それ以前にもアメリカで数年生活していたくせに、
ものすごいホームシックにやられた。

授業は短大の何倍も難しくなり、
ひとクラス20人の中で唯一の外国人ということで、
ものすごい劣等感を味わった。

授業についていけなくなり、
クラスを欠席するようになり、
夜な夜なNew Yorkの街を歩き回るようになった。
そして夜型の生活が定着し、
とうとう学校を辞めることになった。

大都会の中だからこその孤独感を味わった。

その頃もらったたくさんの手紙の中には、
ユタ州にいたころ仲良くしていたトモダチからのものがあった。

逆に、「筆不精」ではないことが災いしたのだろうと思う。
きっとわたしは、おびただしい数の手紙を、
それも、ものすごく内向き・後ろ向きな内容のものを、
トモダチに送りつけていたのだろうと思う。

いつもやわらかくてあたたかい表現をするトモダチから、
かたくてつめたい表現の手紙が届いた。

「あれこれ一気に考えない方がいいよ。
これだっていうものでなくても、
生きてる実感がなくてもいいじゃない。
観念だけでは生活は何も展開しないよ。」

手紙の最後はいつもどおりの、
やわらかくてあたたかい表現でしめくくってあった。
そして、「花であること」という詩が添えられていた。

その詩を、今、読み返している。
あの頃とはまったく違った思いで受け止めてることに驚く。
そして、トモダチのことを思い出している。

*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
花であることでしか
拮抗できない外部というものが
なければならぬ
花へおしかぶさる重みを
花のかたちのまま
おしかえす
そのとき花であることは
もはや ひとつの宣言である
ひとつの花でしか
あり得ぬ日々をこえて
花でしかついにあり得ぬために
花の周辺は適確にめざめ
花の輪郭は
鋼鉄のようでなければならぬ

(石原吉郎『サンチョ・パンサの帰郷』「花であること」)
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*

Monday, July 26, 2010

Letters II

短大を卒業したのは1995年の5月上旬だった。
その直後、日本に帰国して、8月下旬にNew Yorkに渡った。
(NYUの3年生に編入するためね)

そのころはE-mailなんか使ってなくて、
日本の家族やトモダチとの通信は9割、
手紙(切手を貼って出すやつね)だった。

当時もらった手紙を読みかえしていたら、
仲良くしていたフランス人のトモダチからの手紙が出てきて、
とても懐かしいキモチになった。

「あの頃はフランス語も(少々)話せたのになぁ」
「Sにはうちの両親の家に滞在してもらったのになぁ」
「みんな今頃、どこで、何してるのかなぁ」

わたしは、決して、筆不精ではない。
でも、「新しもの好き」な性格が祟って、
わたしの興味は、New Yorkで知り合った新しいトモダチに、
すっかりシフトしてしまって、そのせいで、
ものすごく残念ながら、旧友との通信はすっかり途絶えてしまった。

今では、E-mailもあるし、Facebookも、Twitterも、
Skypeだってあるんだから、
世界のどこにいても、容易に会話できるっていうのに!
彼らの実家の住所しかしらないわたしは、
手紙(切手が貼って出すやつね)を書くことにした。

「わたしのこと覚えてないかもしれないなぁ」
「今更、『なによー!』って思うかもしれないなぁ」
「もしかしたら届かないかもしれないなぁ」

最近の便利なツールでも連絡が取れるように、
E-mailやらFacebookやらTwitterやらSkypeやらの、
アドレスを添えて。

Hope those letters'll get to them, and we'll start talking again.

Monday, July 19, 2010

Letters

わたしが初めてPCを触ったのはたしか1993年くらいで、
短大のコンピューターのクラスでのことだった。
初めてE-mailアカウントを持ったのは1995年のことで、
4年生大学に編入したときだった。

当時、トモダチのほとんどはPCを持っていなくて、
メールアドレスなんてものも持ってなかった。
通信のほとんどは手紙だった。
(電話は高かったからね)

で、当時いただいた手紙を読みかえしていたら、
後輩Aちゃんからの手紙が出てきて、
夜な夜なNYCを連れまわした思い出が蘇ってきて、
「ああ、今頃なにしてるのかな?」って思ったけど、
まだNYCにいるのか、それとももう日本にいるのか、
または世界のどこかで生活しているのか、
日本の実家の住所を知らないから、調べる術がない。
Facebookやってるかな?って思って検索しても、
女の子だからね、結婚して苗字が変わっちゃったら、
探せない。

いつかまた、どこかで偶然に、再会できたないいな、と思う。
音信不通になっちゃったのはわたしのせいだから、
彼女は会いたくないって思うかもしれないけどね。
これって、なんか、別れた彼女を想う男の気持ち?
なのかもね。

Saturday, July 10, 2010

骨髄バンクからのお知らせ

骨髄バンクに登録してもう随分長い時間がたちます。

数年前に一度、患者さんとの「マッチ」があったにも関わらず、
家族からの同意が得られなかったため、
提供することができませんでした。
(家族の同意は必要)

しかし、今年10月から「末梢血幹細胞移植」が始まるそうで、
これにより、ドナーには、「骨髄」と「末梢血幹細胞」という、
2つの提供選択方法が可能になるようになります。

どういう違いがあるかというと・・・

(1)骨髄の場合

1~2回の通院で、(骨髄搾取後の貧血予防のため)自己採血を行い、
3泊4日の入院中に、全身麻酔下での骨髄採取を行います。

長所: 経験が多いため、安定している。
短所: 全身麻酔による副作用や、針を刺した箇所の痛みや、
感染、出血。 そして自己血採血を要することが多い。

(2)末梢血幹細胞の場合

3~4日の通院または入院で、(造血細胞を増やすため)G-CSF注射を行い、
1泊2日の入院中に、1~2回、4時間程度、末梢血幹細胞の採取を行います。

長所: 自己血採血や全身麻酔下での手術が不要。
短所: 大量G-CSFの副作用。採取中の合併症。採取による血小板減少。
大量G-CSF投与の長期安全性が不明。

今年10月、このシステムの導入スタート時には、
非血縁社間で骨髄提供経験があるドナーのみが対象で、
経験がないドナーとこれから骨髄バンクに登録するドナーは、
来年1月くらいからとなる。

これによって得られるメリットは、
骨髄提供なできないドナーや、全身麻酔に不安を感じるドナーも、
提供が可能になり、(ドナーの自己血採血が不要なことから)、
コーディネート期間が短縮され、
より多くの患者の救命につながるとのこと。

まだ骨髄ドナーの登録をしてない方、ぜひこの機会にしてみてはいかが?

骨髄バンクについての詳細はこちら

Tuesday, July 06, 2010

愛するということ
~Dedicated to my son Rila~

「ママよ」っていうと、「ママでした」っていうリラ。

「なんで『ママでした』って過去形なのかね?」
ってトモダチに聞いたら、
その答えに涙が止まらなくなっちゃった。
。゚(゚´Д`゚)゚。うぇぇん

「『It was you』だから『ママでした』なんだよ。

「『All I wanted was you』ってことだよ。 
1日中ママに会いたいって思ってたってことだよ」

リラーっ! さみしいおもいをさせてごめんねーっ!! 
。゚(゚´Д`゚)゚。うぇぇん

リラ、ママよ。
ママなのよ。
ママでしょ。
ママでした。

Sunday, July 04, 2010

トラウマ

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そうつぶやきそうになった時、ハっとした。
これは、トラウマなのかもしれない。

わたしはいつも、自分より若い子に脅威を感じてた。

21歳のころ、宴会コンパニオンのバイトをしていた。
(いや、バイトなんていう甘っちょろいものじゃなかった。
生活がかかってた。 学費がかかってた。 
アメリカに行くという夢がかかってた。)

そのころは、「頭」として、あちこちの宴会に呼ばれていた。
「あやちゃんと・・・若い子をお願い」
お店の女将さんからのリクエストはいつもそう。
顧客の方々からのリクエストもそう。

女将さんたちからのリクエストの理由は、
わたしが入ると、ドリンクのオーダーがうなぎのぼりだからだった。
わたしも率先して飲むが(2時間でビール1ケースくらい)、
酔っ払いのお客さまたち相手に容赦なく、
どんどんお酒をすすめるからだ(苦笑)。

お客さまたちからのリクエストの理由は、
わたしが入ると、若い女の子たちが安心して、
どんどん飲んで、ちょっと乱れて、面白い宴会になるからだ。
そして、わたしが歌い、女の子たちとダンスを踊れたりするからだ。

女の子たちから、絶対的な信頼を得ていた理由は、
わたしが、マナーの悪いお客さまたち相手からも、
しっかり女の子たちを守るからだ。

「てめー、変なことやってんじゃねーよー」
「触るんだったらチップしっかり出せよー」
わたしが怒鳴っても、お客さまたちは「ヘヘヘ」って力なく笑って、
反省して、手をひっこめて、気前良くチップをはずんだりして、
ウィン・ウィンの関係だったからだ。

(ママや他の年配の女の子たちだと、そういうわけにはいかなかった。
「ふざけんなよー金だしてんだぞー」
「じゃー帰れよー」
ルーズ・ルーズの関係ですね 苦笑)

というわけで、わたしの入った宴会は、
若い女の子たちからも、お客さまたちからも、
お店の女将さんたちからも、大うけだった。

しかし・・・
わたしは、内心、穏やかではなかった。

若い子というのは、16歳とか17歳とかで、
21歳のわたしからしたら、脅威でしかなかった。
彼女たちは、とにかく、若くて、可愛くて、
肌のハリも全然違うし、
わたしにないものをたくさん持っていた。
(21歳のわたしだって、十分、若かったんですけどね・・・)

おかげさまで、紳士的で義理堅い顧客の方々は、
わたしとの歴史を重んじ、気をつかって、
(痛い、痛い・・・)、
わたしの顔をつぶすようなことは一切しなかったけれども、
売り上げナンバー1の座を、年下の子に奪われることが、
怖かった。
宴会に呼ばれなくなる日がくることが怖かった。
「ババア、帰れよー」と、言われるかもしれないという、
そういう恐怖と、いつも戦っていた。

純真無垢なフリをしつつ、過剰サービスをしてるる若い子たち。
彼女たちなら、「若さゆえ」で許されることも、
「頭」をまかされているわたしにはできなかった。
それに、わたしのサービスは、そういうスタイルではなかった。

あれから、20年がたち、今でも、若い子と飲む席では、
いつも足元がグラグラする気がする。

このトラウマ、どうしたらいいんだろう。
「怖さがなくなるまで、繰り返したらいい」
いつか本で読んだことがあった。

そっか、繰り返せば、消えるのか。
よしっ!

Saturday, July 03, 2010

トモダチ

先週日曜日、高校のときのトモダチが、結婚した。

唯一の独トモだったので、わたしは動揺してしまい、 結婚式を欠席することにした。 

欠席ハガキを出した瞬間、動揺はさらに大きくなった気がした。  「トモダチの結婚式に出席しないなんて!」

自責の念は日々大きくなり、お祝いを贈っても、電報を送っても、 キモチが晴れることはなかった。

そして、結婚式の翌日、家のポストに、宅急便の不在連絡票が入っていた。  差出人はトモダチで、届け物はクール宅急便だった。

「なんだろー?」
「フルーツかなー?」
「結婚式の残りのケーキかなー (笑)?」

外食が続き、なかなか再配達を指定することができなかった。 そして、今日、やっと、トモダチからのギフトを受け取ることができた。

包装紙を破ると、出てきたのは、シャンパンだった。
シャンパンが何より大好物だということを分かってるトモダチ。
フルーツや甘いものが苦手なことをよく分かってるトモダチ。
彼女ならではのチョイスだった。

ボトルをみた瞬間、純粋で、優しくて、心のキレイなトモダチの顔が浮かんだ。

「わたしったらなんてことしちゃったの!」
カラダの中にたまっていた汚いものが食道を通って逆流しそうになった。
自己嫌悪感でいっぱいになった。

長年(20年以上!)、トモダチ関係を続けることは、簡単なことじゃない。
お互いに、違う世界へ飛び出し、いろいろな人と出会い、別れ、
数々の経験を重ねて、それでもなお、「トモダチでいたい!」
そうお互いに思わなくては、続かない。

直筆のメッセージカードが添えられていた。

「今回、いろいろ気をつかわせてしまいごめんなさい。
電報もありがとうございました。
無事に式を終えほっとしています。
近々お会いできたらと思います。
また連絡くださいね。
お待ちしております。」

カードの一番下には、永遠の伴侶となった彼と連名でサインしてあり、
その文字からも、トモダチの幸せが伝わってくるようだった。

こんなわたしと今までもそしてこれからも、
「トモダチでいたい!」と思っていてくれる彼女にココロから感謝。
ふたりの幸せを祈ります♪